生き物と音の事典
(一社)生物音響学会編, 朝倉書店, 2019年,441頁,15,000円(本体価格)
古来、感覚を5種類に分類して五感という。ヒトでは音声コミュニケーションが社会性の基盤であることに疑いはないが、ヒトは昼行性で視覚に依存するところが大きい。そのせいか、一番早く詳しい生理機構が明らかになった感覚は視覚(光感覚)であり、その他の感覚の研究は遅れていると学生時代のわたしは感じていた。他方、多くの動物の中には音(広く振動という意味、ヒトの可聴音に限らない)を頼りに生きているものは多い。本書は、生物現象における音を生物学、物理学あるいは工学の立場から研究している人たちの学会、生物音響学会が、それぞれの項目を、原則として見開き2ページにまとめた事典形式の書籍である。編集者9名、執筆者134名による203項目からなる大冊で、生物音響学会渾身の作品といえる。
英語での書名は「Encyclopedia of Bioacoustics」であるが、日本語がそのまま「生物音響学事典」ではないことに、編集を行った生物音響学会の思いが表れている。○○学事典は基本的に○○学の研究者あるいは○○学を志す大学生や大学院生が自分の専門分野の勉強のために引くものであろう。したがって、「生物音響学事典」であれば、読者として生物音響学に携わる人たちがターゲットとなる。しかし本書は、価格設定からは図書館が主なターゲットと考えられるが、「生き物と音の事典」というタイトルからは専門家以外も読むことを想定している。しかも、事典ではあるが、特定の項目を調べるために「引く」だけのものではない。生物音響学の専門家ではないわたしが、苦労せずに読み進むことができ、むしろ「読む」のが楽しかった。内容がおもしろかったことはもちろんであるが、1つの項目を見開き2ページという限られた分量にまとめる過程で、重要なエッセンスのみが抽出されたのだろう。また、これだけ多数の執筆者によるのに、読んでいてまちまちな印象がないのは、編集者が統一性を持たせるように努めたせいであろう。したがって、この事典を、必要に応じて「引く」だけではなく、初めから「読む」本としてもお薦めしたい。
第1章は、音や振動の基本的な性質についての項目が並び、高校時代に勉強した物理の知識を改めて整理しながら読んだ。第2章は主としてヒトの発声や聴覚にあてられており、言語学との関係もおもしろく感じられた。中には、人工の中耳や内耳のように項目ごと初めて知った内容もあった。第3章はほとんどがコウモリの超音波によるエコロケーションやコミュニケーションにあてられ、この分野でコウモリの果たしてきた役割の大きさがうかがえた。第4章は主にイルカの超音波によるエコロケーションやコミュニケーションの項目が並ぶ。第5章は鳥類で、ここには神経行動学の古典とも言えるフクロウの音源定位や、鳴禽の歌学習の項目がある。第6章は爬虫両生類で、わたしが所属する研究室で近年研究した内容も2項目含まれる。第7章は主に魚類が対象である。第8章は昆虫で、昆虫学者のわたしが親しみを覚える内容が並んでいる。ガの配偶行動では性フェロモンによる誘因が古くから著名で、近年になって超音波も重要ということがわかったときには衝撃が走ったが、その内容も含まれる。また、害虫防除などの応用的な側面にも4項目があてられている。「鳴く虫と文化」というのは日本らしい項目である。さらに、植物の3項目を、分野の遠いわたしは驚きとともに読んだ。最後の第9章はとりわけ本書の独自性が示された部分で、第1章の総論、第2章~第8章の各論とは異なる比較生物学的なアプローチの結果が並んでいる。「鳴く虫」と言うが、虫が音を出すしくみのほとんどは、脊椎動物が声を出すしくみとは異なる。昆虫の聴覚受容器と脊椎動物の耳も、まったく起源の異なるものである。このような収斂現象を調べることで生物進化の深みを理解することができる。
このように本書は価格を除いては褒めるところばかりであるが、一つだけ苦言を呈したい。土壌に生息する線虫の1種Caenorhabditis elegansは、現在ではモデル生物として広く知られ、学生がよく「シー・エレガンス」と呼んでいる。しかし、Cで略される属名を尋ねると知らないことが多い。仮にこの線虫を会話の中で「シー・エレガンス」と呼ぶことまでは許すとしても、このような書物の中にそう書くのは、分類学あるいは命名法に対する冒涜である。ちなみに、属名がCで始まり、種小名がelegansである生物が、動物で約70種、植物で約20種知られる(https://www.itis.gov/)。すなわち「シー・エレガンス」だけでは、これらのどれを指すかわからない。きっと「エッチ・サピエンス」が書いたに違いない。
沼田英治(京都大学大学院理学研究科)