はじめに 運動とその制御機構についての初期の研究
運動性は,生物界のあらゆる階層を通じて普遍的に観察される最も重要な属性の一つである.特に動物は,進化の過程で細胞骨格とモータータンパク質による効率的でかつ可塑的な細胞運動装置を獲得した.また,これに伴って,これらの運動装置を制御するシステムが発達したが,これらのことは動物界の多様な発展の主要因となった.一つにはこのような理由から,また,運動自体が本来もっている面白さから,多くの生物学者,とりわけ動物生理学者にとって,生体運動とその制御の機構を解明することは,古くから最優先課題の一つであった.
生命現象の中でも,特に運動性の研究においては,運動に関与する個々の構造(部品)を特定し,その役割(機能)と他の構造との機能的関係を明らかにするアプローチが不可欠である.しかし,これらのことが可能となる条件が究極的に整うためには電子顕微鏡や近代的な生化学によって生体の微細構造が明らかになるのを待たなければならなかった.伝統的な生理学においては,例えば脊椎動物の骨格筋を刺激した場合に生じる収縮に関する精密な物理学的な測定がなされていたが,これらを除けば,筋肉などの運動性細胞に関する研究は,細胞の興奮性の研究であり,現在の視点からすれば,運動性自体よりはその制御機構の研究であった.しかし,筋肉における収縮興奮連関の研究の発展において,見事に示されたように,運動機構とその制御機構とは極めて密接に関係しており,運動の制御機構についての研究は,運動機構の研究にとって不可欠であるといってよい.
東京大学理学部動物学教室の第一講座(動物生理学)では,1920年代から鎌田武雄教授,続いて木下治雄教授によって,さまざまな動物細胞,特に骨格筋細胞,繊毛虫類,魚類の色素胞,ムラサキイガイの繊毛細胞などをもちいて,主として興奮生理学的立場からの研究が盛んに行われ,当時の困難な状況下で,他の追随を許さない多くの独創的成果をあげていた.
高橋は,1953年に木下治雄教授の下で大学院生として研究を始めたが,それは,木下教授の「運動」に対する強烈な関心と,独創的でかつエレガントな研究手法に共感したというより“憧れた”からである.高橋の初期の研究の主要なものには,ムラサキイガイのABRM(キャッチ筋)の収縮と弛緩の制御に関わる二重神経支配の発見(文献1),ウニの棘運動の神経制御機構の解明(2),棘皮動物の神経光受容の電気生理学的立証(Nature, 1961)(3),棘皮動物のキャッチ結合組織の発見(4, 5)などがあるが,これらはいずれも運動の制御という視点からの研究の発展である.また,これらの研究課題の多くは,大学院生であった多くの優秀な研究者ならびに高橋自身の研究によって,現在も発展を続け,重要な成果が得られているが,ここではできるだけ今回の賞の対象とされた課題に限定してその大要を述べる.
繊毛運動の制御機構
1) 神経による制御
繊毛運動とその制御に関連した研究は,鎌田と木下,およびその門下,特に内藤豊らによって精力的に行われ,数々の記念碑的業績がある.高橋は,1969年代後半から,村上彰と共同で,当時ほとんど未開拓の分野であった繊毛運動の神経制御に関する生理学的研究に着手した.この研究には,それまでムラサキイガイの鰓の繊毛運動について独創的な研究を行っていた村上と,ムラサキイガイの神経を扱ってきた高橋との共同作業が非常に有効だった.
パラメシウムなどの繊毛虫類では,繊毛運動と細胞膜の電気生理学的現象との密接な関連が明らかにされており,特に,細胞膜の脱分極によって,いわゆる繊毛逆転反応が起ることが,すでに確立していた.高橋らはムラサキイガイの鰓に鰓神経と内臓神経節とをつけたまま切り出した標本を開発して,繊毛運動の神経支配に関する研究を行った.この神経繊毛標本では側繊毛は正常な運動を続けるが,神経節を切り離すと繊毛は停止する.しかし,海水中にセロトニン(5-HT)を加えたり,鰓神経に繰返し電気刺激を与えたりすると,繊毛運動の回復,さらに活性化が見られる.さらに,鰓神経に電気刺激を与えると運動中の側繊毛が一斉に回復打方向に倒れて停止することが明らかになった(繊毛停止反応).微小電極を用いて側繊毛細胞の細胞内電位を記録すると,神経刺激によって一過性の脱分極が生じる(Nature, 1975)(6).この繊毛停止反応はホヤの繊毛などでも見られ,いくつかの点で単細胞生物の繊毛逆転反応に対応する反応と考えられる.これらの研究は,多細胞動物の繊毛が興奮膜を持ち,神経による制御を受けている機構を明らかにした最初の報告となった(7-13).
2) カルシウムの役割
パラメシウムの繊毛逆転反応において,細胞内カルシウムイオン濃度が重要な役割を果たしていることは,内藤豊らの研究によって決定的に証明されたが,多細胞動物の繊毛停止反応においても細胞内のカルシウムイオン濃度が重要な役割を果たしていることが,高橋の研究室において,土屋禎三らによってさまざまな手法を用いて解明された(14-16).
パラメシウムの繊毛逆転反応は電位依存性チャネルを介して繊毛内に流入するカルシウムイオンによって引き起こされると予想されていたが,チャネルの局在についての手がかりは,小倉明彦と高橋との研究によって得られた.エタノールによりパラメシウムの繊毛を除去し,繊毛除去後と徐々に再生しつつある状態のパラメシウムについて細胞の電気生理学的反応性を比較する方法を開発して行った実験の結果,繊毛運動を制御しているカルシウムチャネルが,繊毛膜上に局在していることが明らかとなった(Nature, 1976)(17).小倉はMachemerらとの共同研究によって,パラメシウムの細胞上のカルシウムチャネルの分布に関する研究をさらに発展させた.
パラメシウムの繊毛運動とその制御に関して,古くから興味を持たれている現象に重力走性がある.重力走性については,細胞体の密度分布の偏りなどに由来する比較的単純な物理的機構に由来するとする説と,何らかの生理学的機構による重力ベクトルの感知と,それによる繊毛運動の変化が反応に関わるとする説とが存在する.この問題に解答を与えるため,高橋は,村上,吉村建二郎,石井直方らと共同して,宇宙軌道上での実験も視野に入れて,微小重力条件下でのパラメシウムの運動の研究を進めている(18-21).すでに,ドイツのブレーメン大学の落下塔や,北海道の地下無重力実験センターなどの自由落下施設や,航空機の放物線飛行を利用した微小重力実験を重ねている.
鞭毛・繊毛の運動機構とその制御
鞭毛・繊毛の微細構造や,生化学についての研究が進展するに伴って,運動やその制御の機構を,より微細なレベルまで直接的な実験によって解明することが可能となった.鞭毛・繊毛は,原生動物からヒトにいたる殆どすべての動物と,他の多くの真核生物が持つ運動器官である.それらの内部には,直径約0.2 μmの軸糸と呼ばれる複雑な構造がある.軸糸の骨格をなすのは中心を通る2本の単管の微小管と,それを囲む9本のダブレット微小管で,「9+2」構造と呼ばれるものである.ダブレット微小管上にはモータータンパ質であるダイニンが2列の腕となって並び,このダイニン腕がATPを加水分解する際に出される化学エネルギーを力学エネルギーに変換することにより,隣のダブレット微小管との間に滑り運動が起こる(総説参照22).現在では、この滑り運動が鞭毛・繊毛の周期的屈曲運動の原動力であるという微小管滑り説が確立されているが,これには,以下に述べる真行寺,村上,高橋による研究が重要な貢献を果たした.
1) 「滑り説」確立への寄与
微小管相互の滑り運動が鞭毛・繊毛運動の基本メカニズムであるとする考え(微小管滑り説)は,1959年代の末に提唱され,さらに,1971年のGibbonsらによる滑り運動の観察によって,広く支持されるようになった.しかし,鞭毛・繊毛運動の特徴である屈曲が,微小管の直線的な滑りにより形成されることを実証することは容易ではなかった.しかし,高橋と村上は,この問題に決定的な答えを与える実験を着想した.
ウニ精子の鞭毛の屈曲波形は1平面内に形成される.つまり,もし滑り説が成り立つ状況が存在するとすれば,9本のダブレット微小管から構成される軸糸は,あたかも平行した2本のフィラメントからなるもののようにふるまうと単純化して考えることができる.このような系で,2本のフィラメント間の限られた部分のみにATPを作用させるなどして局所的な運動を起こさせることができれば,滑り説が成り立つ場合と成り立たない場合とで異なる結果が得られるはずである.すなわち,フィラメント間に局所的な滑りが起った場合,他の部分がずれに対する抵抗とならなければフィラメント全体でずれが起こり.この場合屈曲は形成されない.しかし,すべり運動に抵抗する部分が運動する部分の両側にある場合には,滑る部分と滑らない部分の間に互いに逆向きの屈曲が起こるであろう.これが,滑り説が成り立つ場合に予想される結果である.これに対して,屈曲が,局所的な収縮など,滑り運動以外の要因による場合には,ATPで局所的に活性化された部分だけが曲ると予想される.
そこで,ウニ精子の鞭毛の膜を除去し,鞭毛軸糸の一部に微小ガラスピペットを用いてATPを電気泳動法(iontophoresis)によって与えるという実験を行ったところ,ATPを与えた部分は,屈曲せずに,その両側に互いに逆向きの同じ大きさの屈曲が見事に形成されたのである.これによって,滑りにより屈曲が形成されることが実証された(Nature, 1977)(23).この実験は当時修士課程1年であった真行寺が,村上,高橋とともに行ったものである.
ATP-iontophoresisの手法を用いれば,定量的にATPを局所に作用させることが可能である(24).少量のATPを短時間(~10 ms)与えると,上に述べたような局所的屈曲を誘導できる.ところが作用させる量を微量のまま,繰り返し与えると,屈曲は,ある方向に一度形成された後に,形成前の状態に戻り,さらに逆向きに曲がり,またもとの状態に戻る,というように局所的屈曲形成を両方向に繰り返し起こすことができる(25).この結果は,鞭毛のどの部分も屈曲形成ができるだけでなく,振動する能力もそなえているのではないかという予想を裏付けることとなった.
2) 鞭毛の周期的振動運動機構の解明をめざして−ダイニン1分子の力の測定と自励振動の発見
屈曲の原動力となるダブレット微小管間の滑り運動はダイニンによって起こされる.この時ダイニンは,力を出して隣のダブレットを動かすと考えられるが,その力は非常に小さいと推測されるので,この力を測ることは1970年代には現実的ではなかった.しかし,上村と高橋は,軸糸に2本の力学的に較正した微小ガラス針を付着させ,ATPを与えた時の軸糸の滑りによって起こるガラス針のたわみから,ダイニンが微小管を滑らせる時に出す力を測定し,さらに,滑り運動の力-速度関係を求めることに成功した(Nature, 1981)(26, 27).微小な針のたわみを用いる力学的測定自体は,高橋らの独創ではないが,この研究は,細胞運動の原動力となる滑り運動の力を直接測定できることを示したという点で画期的なものであった.この研究でダイニン1分子が出す力は平均約1 pNと推定された.この値は,後述する1998年の真行寺らによるダイニン1分子の力測定の結果(6 pN)とよく合うことから,測定精度の高さがうかがわれる.その後大岩と高橋は測定装置の改良を行い,ダイニンの力−速度関係をさらに深く追求した.その解析によると,ダイニンが微小管と架橋形成する時の結合の速度は速いが,解離の速度はより遅いことが示された(28, 29).これらの実験を通して開発された力の測定手法は,後にNicklasによる紡錘体微小管の力測定や柳田らによるアクチンフィラメントの力測定に応用され,現在日本をはじめ国際的に活発な研究が展開されている1分子生理学研究のさきがけとなった.
ところで,上村・高橋の滑り力測定の際,より硬いガラス針を用いたり,サーボコントロールをすることによって,長さ変化を最小限にとどめた等尺性(isometric)条件で測定すると,力の発生の初期に振動現象が見られた(30).このことは,鞭毛の屈曲運動は振動運動であるが,その振動の基本は,軸糸内に起こる滑りの振動である可能性を示唆している.真行寺は,この軸糸内の微小管間の滑りに見られる振動の基本がどこに存在するのかに興味を持ち,この報告から約15年後にダイニン1分子の力を測ることを計画した.この測定には,1990年代初めに開発された光ピンセット法が有用であると考えたからである.また,力の振動は滑り運動と関係する可能性が高い.そこで,多くのモータータンパク質研究者が,抽出したタンパク質を用いた測定を行っていたのに対して,ダブレット上に付いたままのダイニンの力を測るべきであると考えた.ダイニンは,ダブレット上に約24 nmの周期で規則的に並んでいる.そこで,軸糸からダブレットを滑り出させ,1本のダブレット上に並んだダイニンに,別にチューブリンを重合させて作った微小管を直角に作用させた.重合微小管には,直径1μmのビーズを付けて光ピンセットによりこのビーズを操作する.重合微小管の直径は約25 nmであるので,ダイニンの列に対して直角に作用させた場合,微小管はダイニン1個ないしは2個と相互作用すると予想される.ダイニンの出す力は,光ピンセットとナノメーター計測法を組み合わせた装置により測定した.驚いたことに,ダイニンは,微小管を直角に相互作用させた場合にも,微小管を通常の方向(微小管のプラス端方向)へと滑らせた.このダイニン1分子の出す力は約6 pNで,ダイニンはキネシンと似たprocessive(歩くように動く)モーターであることが明らかとなった.これは,ダイニン1分子の力を初めて直接測定した報告であるが,前述の上村・高橋がダブレット微小管間の滑りの力から推定したダイニンの平均的な力に近い値が得られたことは驚きであった.さらに,この1分子ダイニンの力測定の過程で,力がATP濃度に依存した自励振動を行っていることを発見した(Nature, 1998)(31, 32).これらの研究は,真行寺研究室が柳田敏雄教授の研究室の協力の下に樋口秀雄博士と共同で行ったものである.これによりダブレット間の滑りに見られた力の振動の基礎はダイニンそのものの性質にあることが明らかとなった.この発見は,鞭毛の振動運動の基礎がダイニン1分子に存在することを示唆するものである.今後は,このダイニンの振動運動と軸糸内で起こる滑り運動の振動との関係を調べていくことにより,鞭毛の振動運動の機構を明らかにできると期待している.
3) 鞭毛運動の可塑性の発見
これまで述べてきたように,鞭毛の振動運動の基本は,ダイニンによって起こされる滑り運動にある.そして,ダイニンのATP分解と滑り運動の速度はATP濃度に依存することが知られている.このことから考えると,ほぼ一定濃度のATP(数mM)中で運動を行う鞭毛の軸糸内では常に一定の固定した滑り速度による滑りが軸糸の一定の場所で起こっていると想像される.しかし,それは事実なのであろうか?
Ian R. Gibbons博士とのディスカッションの際に,「外部から精子鞭毛に強制振動を与えたならば,鞭毛の振動は外部の振動に同期するだろうか?それとも精子本来の振動と外部からの振動との合成になるだろうか?」という疑問が出た.この疑問に答えることができれば,振動の本質を解く鍵がえられるかもしれない.そこで,Gibbons,真行寺,村上,高橋は,精子の頭部を微小ピペットで吸引固定し,このピペットにコンピュータ制御された振動を与える装置を作成して実験を行った.その結果,鞭毛は付加された強制振動に同期して自らの運動の周波数を変調するだけでなく,強制振動面を回転させると,それに伴って鞭毛の屈曲形成面が回転することを発見した(Nature, 1987)(33).さらに解析をすすめると屈曲面の回転数は記憶されていて,強制振動停止後にその回転数を解消する逆向き回転が生ずること,軸糸の9本の微小管は屈曲面の回転中に回転しないことが明らかとなった(34-36).これらの結果は,軸糸内の唯一回転する要素である2本の中心微小管が屈曲面の回転に重要である可能性を示唆している(37).つまり,9本のダブレット上のダイニンは機能的に均一で,どの隣り合う2本のダブレット間においても屈曲を形成するような滑り運動が可能であるらしい.
ところで,鞭毛運動の振動数が外部振動の振動数に一定の範囲で同期するということは,鞭毛運動中の微小管の滑り速度には可塑性があることを示唆する.安定した屈曲を形成する鞭毛運動においては,屈曲の大きさ(角度)と運動の周波数の積は,鞭毛内でその運動を行っている時の最大の微小管滑り速度に比例する.したがって,もし角度と周波数の積が外部振動に応じて変化するならば,滑り速度に可塑性があることになる.生きている精子,および膜を取り除いて1 mM ATPで再活性化した精子についてその波形を解析し,滑り速度を求めた結果,振動を与える前の鞭毛の周波数(BF)よりも与えた振動の周波数(VF)が低い場合,滑り速度は周波数の低下に伴って減少するのに対し,VFがBFより高い場合には滑り速度は増加しないことがわかった(38-42).それまで微小管滑り速度は負荷が一定ならば,ATP濃度により一義的に決まると考えられていたが,この結果は,鞭毛運動中の微小管滑り速度は,屈曲の周期性によっても制御されていることを示した.
4) ダイニンの滑り活性の制御
鞭毛の運動機構の制御の基本には,ダイニン1分子の活性の制御,および「9+2」構造におけるダイニン多分子系の活性制御の2つが重要であろうと思われる.1分子についてはATPの加水分解と力発生の関係,および微小管−ダイニン間の架橋形成過程の解明を目指してさまざまな研究が進められている.一方,「9+2」構造については9本のダブレット間の滑り運動の制御がどのようにして屈曲形成に結びつくのかを解明することが重要である.後者の研究について,真行寺らは最近画期的な解析法を開発し,それによって興味深い成果をあげつつある.
前述のように(1977年及びそれに続くATPの局所的投与の研究:23, 25),鞭毛はその根元のみならずすべての場所で能動的屈曲形成が可能であり,さらに能動的に振動できる.このことは,鞭毛を形成する「9+2」構造内に振動要素が存在することを意味する.したがって,「9+2」構造における滑り活性の制御を明らかにするには,鞭毛のみを扱えばよい.一般に滑りを誘導するにはダブレット間をつなぎ止めている蛋白質を壊す必要がある.ウニ精子鞭毛では,トリプシンで軸糸を処理し,ATPを与えることによって軸糸からダブレット1本1本を次々に滑り出させることができる.しかしこのように滑りを起こしたものでは,「9+2」構造はすっかり壊れてしまうので,屈曲を誘導することは全く出来ない.つまり,屈曲を起こすことができるということは滑りの制御が残っているということを意味するが,制御機構を維持したまま滑りを誘導することは可能なのだろうか?
真行寺と高橋は,トリプシンの代わりにエラスターゼで処理した軸糸では,ATPが軸糸全体に与えられるとダブレット微小管が滑り出すのに対し,局所的にATPを与えた場合は局所的屈曲が周期的に振動するように形成されることを発見した(43).このことは,エラスターゼ処理軸糸は,滑りの制御系を残した状態で,微小管の滑り特性を解析できる実験系となりうることを意味している.興味深いことに,エラスターゼ処理軸糸では,全体に与えるATP濃度が低い時(50 μM以下)ではダブレットが全て滑り出すのに対し,100 μM以上の高濃度の時には軸糸が2本のダブレットグループ(束)に別れるように滑る.2本の束のうち1本はもう1本よりも太い.電子顕微鏡観察の結果,太い束には中心小管と5本ないしは6本のダブレットが,一方細い束には4本ないしは3本のダブレットのみが含まれていることがわかった.多くの場合,軸糸内で中心小管の片側に位置するいわゆる3番−4番とその反対側の7番−8番で9本が2つのグループに分かれる.このように2つのグループに分かれるように滑りを起こさせた場合,それぞれのグループの片側の縁に位置するダブレット上のダイニンは露出したままとなる.そこで,このダイニンに外から重合微小管を作用させて,微小管の滑り運動を解析した.その結果,中心小管の存在により滑りの頻度が抑制されることが初めて明らかとなった(44).
前述のように,カルシウムは繊毛・鞭毛で運動方向の逆転や停止反応を引き起こす.ところが,カルシウムが滑り運動に与える影響を実験的に証明しようという試みはいくつもの研究室でなされ,最上と高橋によっても試みられた(45)が,いずれにおいてもカルシウムの効果は検出されなかった.この理由は,これまでの研究は滑りの制御を失った実験系で解析を行ったことによる可能性がある.エラスターゼ処理後に2つの束に分かれるように滑らせたダブレットグループ上で起こる微小管滑り運動に対するカルシウムの効果を解析した結果,細い束の上で起こる滑りはカルシウムにより滑り運動の頻度も速度も変化しなかったが,太い束の上の滑り運動は,カルシウムによって頻度が落ちたのみでなく,滑り速度も低下した.さらにダイニンの内腕のみではどのダブレット上の滑りも完全に抑制されて2つの束に分かれないことがわかった(日本動物学会第73回大会で発表予定).精子頭部を吸引固定して外部から強制振動を与える実験系を用いた場合にも,カルシウムによる滑り速度の低下が示された(46).このように,滑りの制御系を残した実験系においては,カルシウムは明らかにダイニンの滑り活性に影響を与えることがわかった.これらの結果から,カルシウムは,ATP濃度が生体内と同様に高い条件では,中心小管を介してダイニン活性を抑制することがほぼ確実となった.
私達は最近,この2つの束に分かれるように滑る実験系を応用して,束を屈曲させた時の2つの束の間の滑り速度と方向の解析を行った.その結果,屈曲を与えると滑り速度の有意な増加が見られ,束の重なり部分に屈曲を与えた場合には滑りの方向が逆転することを発見した(日本動物学会第73回大会で発表予定).前述したように,屈曲がダイニンの活性を変調することは外部からの強制振動実験でも示されている.これらの結果は,屈曲によるダイニンの活性のフィードバック制御機構の存在を強く示唆する.
おわりに
ここに概略を述べた研究は,多くの先輩や同僚など多くの方々のご協力と,大学院学生および卒業研究の学生として研究に従事された諸氏の努力なくしてはあり得なかったものです.これらの方々のお名前を漏れなく挙げることはしませんが,ここで厚くお礼申し上げます.また,研究費その他について,お世話になった諸機関,団体に心から感謝します.
参考文献には,筆者らが著者となっているものの一部だけをあげました.
参考文献