第2版 現代数理科学事典 分冊普及版 第2巻 生命の数理 書評

第2版 現代数理科学事典 分冊普及版 第2巻 生命の数理 書評

著者:広中 平祐(編集委員会代表)、巌佐 庸(編集幹事)
『第2版 現代数理科学事典』(2009年刊行)を分冊化(全8巻)
出版日:2026年1月29日 価格:3740円(税込価格) 出版社:丸善出版

20世紀後半から21世紀にかけて、生命科学は劇的な変貌を遂げた。分子生物学の進展によって遺伝子やタンパク質の実体が次々と明らかになり、生命現象を構成する「部品」はかつてない精度で記述されるようになった。一方で、その膨大な知識の集積は、「生命はどのように動的システムとして振る舞うのか」という新たな問いを生み出した。『第2版 現代数理科学事典 分冊普及版 第2巻 生命の数理』(丸善出版)は、まさにその転換期に編まれた書物である。

本書の特徴は、「数理生物学」の教科書として特定分野を整理することに留まらず、生命科学と数理科学との接点を、極めて広い視野から再構成している点にある。生態学、行動と社会、進化、発生と形態形成、神経科学、医学、生命情報学、そしてシステム生物学へと至る構成は、生命現象を階層横断的なダイナミカルシステムとして捉え直そうとする編集思想を感じさせる。とりわけ興味深いのは、古典的な反応拡散系やセルオートマトンによる形態形成研究と、遺伝子・タンパク質ネットワークやゆらぎを扱うシステム生物学とが、一つの流れとして配置されていることである。これは、生命科学が「構造の記述」から「状態遷移の理解」へと向かっていた時代精神をよく反映している。

序文で広中平祐氏は、「数理科学とは何か」「数理科学の可能性とは何か」という問いに答えることが本書の目的であると述べている。そして、「本書はますます複雑化してしまう」「それこそが数理科学なのだ」という編集過程での印象的なエピソードが紹介される。ここには重要な示唆がある。すなわち、数理科学とは現実を単純化して美しい理論へ閉じ込める営みではなく、むしろ現実の複雑性へ真正面から向き合うための方法論である、という立場である。

この視点は、近年のシステム生物学の展開を考える上でも極めて重要である。例えば Ferrellらによるultrasensitivity、bistability、oscillationに関する一連の研究は、生化学反応ネットワークが単なる連続的応答系ではなく、「閾値」「不可逆性」「記憶」「意思決定」を伴う非線形動力学系として振る舞うことを明確に示した。細胞周期、MAPKカスケード、カルシウムシグナリングなどにおいて、細胞は単純に入力へ比例応答するのではなく、ある閾値を境に急激に状態転換し、ときに履歴依存性すら示す。この理解は、生命現象を「分子部品の集合」として見る視点から、「状態空間内を遷移するシステム」として捉える視点への大きな転換を意味している。

筆者自身、アフリカツメガエル卵細胞を用いた生殖生物学・発生生物学研究に長年携わってきた立場から、本書の問題意識には強い共感を覚える。受精時の細胞内カルシウム波、卵活性化、減数分裂停止状態の解除と再停止、細胞周期の不可逆的進行など、卵細胞で観察される現象の多くは、典型的な「状態遷移」である。そこでは細胞は中間状態に留まらず、ある瞬間に全体として相転移的に振る舞う。Ferrellらが数理的に記述したultrasensitiveな応答やbistable switchは、まさにこのような現象を理解するための言語であった。本書を読み進めると、2009年前後の時点で既に、日本の数理科学コミュニティがこうした方向性を鋭敏に感じ取っていたことがよく分かる。

本書が刊行されてから十数年が経過した現在、生命科学はさらに巨大化し、単一細胞解析、オミクス解析、AI、データ駆動型研究へと急速に広がっている。しかしその一方で、生命現象を「動的システム」として理解する重要性は、むしろ増しているように思われる。大量データの取得だけでは、細胞が「なぜそのタイミングで状態を変えるのか」という本質的問いには到達できないからである。現在あらためて本書を読むと、その問題意識は決して古びていない。それどころか、今日の生命科学が直面している課題を先取りしていたことに気づかされる。

本書は、数式を多用する専門書というより、「生命を数理で考えるとはどういうことか」を多角的に示した知的地図である。生命科学に携わる研究者のみならず、複雑系科学や情報科学に関心をもつ読者にとっても、多くの示唆を与える一冊であろう。そして何より、本書は、生命科学が「部品の科学」から「ダイナミクスの科学」へ移行しつつあった時代の熱気を、現在に伝えている。

佐藤 賢一(京都産業大学生命科学部)

第2版 現代数理科学事典 分冊普及版 第2巻 生命の数理 書評(PDFファイル)

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