最新 精子学 書評

最新 精子学 書評

稲葉一男/監修,伊川正人・久慈直昭・種村健太郎・吉田学/編集,筑波大学出版会,2025年12月初版発行,12,650円(税込)

動物学研究者は,「基礎研究は世の中の役に立つか」という問いに頻繁にさらされる。研究はスポンサーを得て行われるので,動物学研究者の多くは自らの研究の意義を端的に説明する必要に迫られる。実際,申請書で意義や波及効果の説明が生ぬるければ採択は望めない。他方で,予見できる意義などたかが知れている,という面も研究にはある。事実,大業績を得た方々が端緒の成果の「思いがけなさ」や,その後の進展の「予想もしない広がり」を振り返りもする。ここが営みとしての科学の面白味ともいえようが,振り返るものもない研究者が「オモロイオモロイ」と没入していた刹那に,(コレヤクニタツ?)と首筋によぎる冷感を思えば,この問いは職業の宿痾とも思える。しかし,果せるかな。本書を読んで,評者の心に一番リアルに迫ってきたのは,「基礎研究は恐ろしく役に立つねぇ…」という,今頃こんなこと言っていていいのかとも思う感慨だった。

本書は,精子をイオンから宇宙まで多面的に切りまくる。第1部で精子の形成,運動,受精に関する現在の理解を,第2部では精子の形態と機能,さらには精子貯蔵や生殖戦略の多様な事例を紹介している。動物学会員にはなじみ深いトピックではあるが,評者にとっても学びが多かった。SRYの多様性,精子形成の周期と波,減数分裂時の組換え,交差干渉,ルミクリンとエピディディソーム,走流性や集団遊泳,SEMGs/SVS2とPSA,先体胞のpH上昇,UTJ,Fer-1,CD9とマイクロエクソソーム,sCS,生理的多精受精,ハチのsperm pump,ウミウシのペニスの自切と折れ,などなど。刺激的な発見や問題に多く出会った。

本書の重要性は同じ一冊の中に,さらに第3,4,5部が綴じられているという点にあるだろう。第3部と第4部では特に発展が著しい男性不妊と生殖医療,そして精子が関わる水産・畜産技術が紹介され,最後の第5部では精子とそこに内蔵される遺伝情報の時空間的超克が議論される。この後半も驚きと学びの連続だった。男性不妊にヒトが直立歩行することが一部関係するようであること。マイクロ流路デバイスで走流性にもとづき精子を選抜したりすること。不妊治療の実際と「告知」。男性不妊の検査と治療。男性避妊の方法。培養の方法。水産・畜産の現場における技術活用事例。雌雄の産み分け。特に評者は,TLR7とTLR8を標的とした雌雄産み分け法に吃驚し,FD精子とその強耐性にまた驚愕した。そして,これら後半の内容が間違いなく,前半で説明された内容によって支えられていることをじわじわと,実に意義深く感じる。

思うに,やはり精子は重大である。個人的な話になるが,評者はまだ若い頃,深夜の研究室では高級な微分干渉顕微鏡を一人自由に使えるのをよいことに,自分の細胞をいろいろ観察してみようとなったことがある。毛根やら口腔上皮やらは(フム…)という感じで,血球で「おおー」となったが,精子が…,存在感がちょっと圧倒的だったのだ。自分の細胞なのだが蠢くので微妙な他者感があり,冷めて思えばウニのそれと変わらないような…,でもその多寡や活発さがやはり気になるというような…,そしてそれをわざわざ他人にあけっぴろげに話したりはしないでおくような…。精子はことほどさように身近で,きわめて個人的で,それでいてヒトと食料資源とそれ以外の生命体の未来そのものでもある。時に切実な個人的かつ社会的問題も生むのに,羞恥心と結びついて社会の中で隠蔽されやすい。だからこそ一層,科学の文脈で精子が多面的に分析される中に,おもむろに生命倫理が示される形式には大きな説得力が感じられる。巻末の「結語」が非常に象徴的に,精子学の意義と未来の社会に対する重要性を伝えているのが印象的で,広く一読に値する。基礎研究は実に,役に立つ。

もう一つ指摘しておきたいのは,「精子学」(1992)および「新編 精子学」(2006)という,当時の最新知見をそれぞれ反映した学術書の上に重ねるように,しかし体裁も内容も一新する形で,本書が編まれていることである。評者もまた,これら2冊を本書と読み比べることによって,研究対象としての精子がレーウェンフック以来,変わらず研究者たちの目前に存在し続けながら,そのイメージがどれほど更新され,深化し,変容してきたかを目にすることになった。当然,2025年の「最新 精子学」に最新知見への記述は多い。ただ,1992年の「精子学」にも「へぇ!」「ほぉ!」と読める内容が確かに,しかも数多く存在している(特に研究史の記述,図版の美しさは見事である!)。知識は蓄積するが,書物は必ずしも分厚くなるわけではない。「精子学」(1992)がすでに定めていた,精子をめぐる「研究史/形態/形成/運動/受精/多様性/医療/技術/倫理」という枠組みの中で,社会の歩みに合わせて,やはり「最新 精子学」としか言いようのないものに,コンテンツが一新されている様が際立っている。各時代の分野の牽引者の情熱により,これらの書物が編まれたことで図らずも時代そのものも映し出される。これらの3冊について言えば,動物学会が,そのバトンパスの重要な現場だったことも理解でき,また本書をミームとして引き継ぐ次世代が期待されてもいよう。研究者の文脈では,「精子学」もまた精子なのだ。他の分野も見習うことができる営為と思える。

最後に,巻末の「用語解説」はアイデアも用語の選択も素晴らしいのだが,すべてを読まなければ各章の記述と対応付けるのが難しいと感じた。用語項目の順序に明快なルールがあったり,各項目に関連する章番号が付してあったり,各章の最後に解説がある用語がリスト化されていたり,索引に「用語解説」のページが含められていたり,何らかの対応付けがあるとより効果的になったと思われる。

西野敦雄(弘前大学農学生命科学部)

最新 精子学 書評(PDFファイル)

お知らせのカテゴリ一覧

月別アーカイブ

最新のお知らせ

寄付のお願い

日本動物学会第97回大会

PAGE TOP