廻り道の進化 —生命の問題解決にみる創造性のルール 書評
アンドレアス・ワグナー[著]/和田 洋[訳]
丸善出版,2024年11月刊行,3500円(税別)
私が本書を是非読みたいと思ったのは,先に同じ著者による「進化の謎を数学で解く」(文芸春秋2015)を読み,この著者のネオ・ダーウィニズムに対する深い造詣と博識に感銘していたためである(知らなかったが,訳者あとがきによれば著者にはさらに「パラドクスだらけの生命」青土社2010,という邦訳本もあるらしい)。さらに今回の本では,どうやら遺伝的浮動や性の問題が語られているらしい。私は長年ザトウムシでふつうにみられる染色体数の地理的分化を研究してきたのだが,新たな染色体再配列の集団中への固定に遺伝的浮動は必須の過程なので,この現象にとてもなじみがある。また産雌単為生殖も得意分野だったため,「性」の進化も長年の関心事である。これでは読まざるを得ない。
本書で頻繁に語られる適応地形図(本書では「適応度地形図」としているので以下ではそのように記す)は集団遺伝学の三始祖の一人シューアル・ライトが1932年に考案し,進化生物学の教科書ではお馴染みの図である。ふつう2つの遺伝子座のアレルの頻度を用いて三次元グラフとして表される。地形図上のピークは平均適応度の高い集団の遺伝的構成で,自然選択は平均適応度をピークに向けて上昇させる方向にしか働かない。ここがポイントである。
第4章まででは,新たな機能をもつ酵素タンパク質が適応度地形図上でどのようなルートをたどって獲得されるかという問題に関する著者らの研究内容を紹介しつつ,適応度地形図での進化の進み方をていねいに説いている。適応度地形図の中で他にもっと高いピークがあっても自然選択は一つの高みに登らせる方向にしか働かない。さらに高い別のピークに到達するには遺伝的浮動が必要となる。が,適応度地形図が2次元ならピークからの下降は難しいが,これが3次元,4次元と次元が上がるとクモの巣のように稜線がつながり別ピークへの飛び越えは容易になるという。染色体再配列ではそれが起こる相同染色体対の数が増えれば稜線がつながるどころか斜面はますますきつくなるので,この説明は私にはだまされている感がぬぐえないのだが,著者の巧妙な説明をたどるとなるほどそういうこともあるのかもと納得させられる。
遺伝的浮動は体が小さく集団サイズが大きい細菌では非常に弱いが,体が大きく集団サイズが小さくなると大きくなる。だから体の大きい動物の進化ではそれが重要になるという。別の適応度ピークへの瞬間移動には有性生殖による遺伝子の混ぜ合わせ,組換えなどが有効に働く。こう書くと,有性生殖はそのために進化してきたのだ,と短絡する人が現れそうだが,この著者はけっしてそんなことは言わない。有性生殖の2倍のコストを上回る利益が有性生殖にあるとは個体を単位とする自然選択ではほとんど説明できないのだ。この点で,この著者はすごく信頼できる方だという思いを新たにした。
5章ではうってかわって,遺伝的浮動に似ているというダイヤモンドや雪の結晶ができあがる過程で果たす熱の役割,6章では運送業における経路探索の問題が語られる。そして,最後の7〜9章では,科学・芸術・文学などにおける独創的な偉業の達成において遺伝的浮動に似たプロセスが重要だということが,多くのエピソードとともに語られる。そして,独創的な研究や芸術を生み出すうえで,多様性を重んじ,失敗を許容し,個人の自律性を保護する社会であることがいかに重要かということを,多くの研究資料を引用しつつ説いている。その語り口には説得力があり,多くの政治家や教育行政にかかわる方々はもちろん,教育に携わるあらゆる人に是非とも読んでいただきたい,と感じる部分である。
本書には広範な分野の非常に多様な話題が盛り込まれており,だれが読んでもどこかにその人の知識欲の琴線にふれる何かの話があるのではないかと思う。私にとっての一番のそれは,これまで産雌単為生殖で種分化を繰り返している唯一の例として知られるヒルガタワムシ類で外来遺伝子を3000以上もつことが判明したという話だった(96ページ)。産雌単為生殖をしているとその系統では種分化が起きない,という事実は古くから知られているが,唯一の例外がヒルガタワムシだった。そのため体細胞内組換えのような未知の何らかの仕組みがあるのかもしれないと言う人はいたが,それ以上はわかっていなかった。が,仕組みは不明ながら,実際に,ゲノムが多様であることは実証されていたらしい。その論文は2013年のNature誌に出ていたらしいのだが,不注意にも,私はそれを見逃していた。
生物学が専門でない翻訳家の方が訳したこの手の本には,あきらかに用語の選択を誤っていると思うものがありがちだが,本書はきちんとした進化生物学の専門家が訳されており,安心して読み進められた。訳者あとがきによれば,recombinationを「組換え」,「遺伝物質の交換」,「組替え」と訳し分けたという。このような気配りは生物学の十分な知識を欠く訳者では難しかったであろう。私が気づいた些細な誤植(読解には何の問題もない)はわずか4カ所(p. 91, 145, 195, 216)で,あらゆるものを数値で示すという著者お得意の流儀にならって計算すると,誤植率はわずか0.0021%である。これは新刊初刷の書籍としては相当低いのではないだろうか。
相当に面白く,多くの人に一読をお薦めしたい良書である。独創的な研究を目指したい若い研究者のみなさんには本書は自己啓発本としても大いに役立つのではなかろうか。
鶴崎展巨(鳥取大学 名誉教授)