生き物と匂い・フェロモンの辞典 書評
東原和成・新村芳人・吉原良浩・横須賀誠・菊水健史・岡本雅子 編
朝倉書店 2025年6月1日刊行 15,000円(+税)
本書は、「動物とは何か」という素朴な問いを抱き続けたまま世界的な研究者となった幸せな科学者たちが編み上げた、匂いとフェロモンの教科書である。動物学研究室の蔵書として必携であることはもちろん、研究者を志す学生や、進路に迷う大学院生・若手研究者にとっても、学問とは何かを考えるための道しるべとなる一冊である。
匂いとフェロモン、すなわち嗅覚系と鋤鼻系は、動物の共有原始形質ではない。しかし、動物が外界を受容するために進化させた感覚系のなかでも最も原始的なものの一つであり、動物が動物として環境と関わるうえで本質的な役割を担う生体システムである。「匂い物質はどこからくるかというと、ほとんどは植物、昆虫、動物、微生物などの生物の身体の中で作られ、体外に発せられる化合物である」(p.3、東原)。はたして花や果実の芳香は、植物が動物を誘引するために発しているのか、それとも動物がそのように受容しているのか。岡良隆先生が主催された油壺での会合の夜、編者の横須賀誠先生とこの問いをめぐって語り合い、その折に見上げた星空とともに、いまも懐かしく思い出す。
フェロモンという概念は、その萌芽を『ファーブル昆虫記』に見ることができる。以前は、フェロモン感覚系である鋤鼻系を副嗅覚系として(主)嗅覚系に付属するものと捉えていたが、研究の進展につれて、鋤鼻器は単なる補助器官ではなく、生殖、社会行動、攻撃行動、母子認識などに特化した独立性の高い感覚系であることが明らかとなってきた。性フェロモンのみならず、排卵や卵巣発育抑制など生殖に関わるもの、攻撃・集合・道標・警報・階級変化など社会行動に関わるものまで、数多くの化合物が同定されている。その受容機構についても系統発生的な変化や進化的共通性が議論されるようになり、匂いとフェロモンがいかにして動物の行動や生理的変化を引き起こすのかという、動物の本質に迫る研究が大きく発展してきた。一方で、魚類や鳥類をはじめ多くの脊椎動物では鋤鼻器そのものが存在しない、あるいは主嗅覚系がフェロモンも受容するなど、「主」「副」という二分法では説明できない例も数多く見つかっている。
本書は、細菌、酵母、線虫、昆虫をはじめとする無脊椎動物から、魚類、両生類、爬虫類、鳥類、そしてげっ歯類や非ヒト霊長類などの哺乳類、さらにはヒトに至るまで、嗅覚系と鋤鼻系に関する知見を体系的に整理した百科事典である。さらに、植物の匂いセンシング、悪臭対策、害獣・害虫忌避など応用分野にも目を配っており、「生き物と匂い」という書名にふさわしい広がりを備えている。
しかし、本書にはもう一つ、「辞典」という書名に込められた意味があるように思われる。研究とは、新たな概念を生み出して言葉を定義し、あるいは既存の用語を再定義する営みでもある。とりわけ、行動や生理的変化という曖昧なエンドポイントを対象とする動物学において、「匂いとフェロモン」の研究分野は、近年その概念整理を飛躍的に進めてきた。本書では、編者・執筆者が科学者として極めて慎重に用語を選び、項目を整理し、引用文献の原典にも細心の注意を払っている。その姿勢そのものが、「辞典」にふさわしい学術的態度を体現している。同時に私は、本書が大学院生や若手研究者に対して、「サイエンスとはかくあるべきだ」という静かなメッセージを発しているようにも感じた。
わが国では、伝統的に動物学は動物そのものの理を探究する学問であり、その応用は獣医学、水産学、医学、神経科学などの隣接分野が担ってきた。嗅覚系・鋤鼻系研究は、日本の研究者が世界を牽引してきた分野でもある。その黎明期を支えた椛秀人先生と森裕司先生は獣医学系、森憲作先生は医学系の研究者であった。一方、市川眞澄先生や上田宏先生のように、動物学会で育ち、この分野の礎を築きながら学会に寄り添い続ける研究者も少なくない。また、石居進名誉会員、岡良隆名誉会員らは、動物学会を軸として分野横断的な連携を育み、本書の執筆者でもある窪川をはじめ、多くの研究者を育ててきた。守谷、横須賀らもまた、系譜にある動物学会の子や孫といえる。本書には、日本動物学会が長年にわたり若手研究者を育ててきた歴史と、その学問的系譜が確かに刻まれている。
代表編者の東原は、農芸化学の研究者として、オーセンティックな化学の基盤と最先端の分析技術を融合し、「匂いとフェロモン」研究の新たな地平を切り拓いた第一人者である。詳細には立ち入らないが、氏は黎明期を支えた先達への深い敬意を常に忘れず、その交流を大切にしてきた。先達たちが東原氏の活躍を、まるで我が子の成長を喜ぶように語っていたことも申し添えたい。このようにして本書は、間違いなく動物学会の系譜に連なる名著である。黎明期を支えた日本人研究者と、次の扉をあけた者たちの合作であり、オーセンティックなサイエンスの作法と最先端の技術革新・発見とを融合させた「辞典」にほかならない。図書館や研究室の蔵書としても、若手研究者にとってのサイエンスの道標としても、極めて高い価値を有する一冊である。
掛山 正心(早稲田大学 人間科学学術院)



