ビジュアルバイオ実験 分子生物学実験の基本 書評
神田真司・馬谷千恵(著),Gakken,2025年12月11日出版,4,400円 (税込)
本書は,30年前に最初の巻が刊行された「バイオ実験イラストレイテッドシリーズ 全7巻」の後継版として執筆されたとある。評者が大学院生だった80年代半ば以降,分子生物学の実験書を取り巻く環境は,この40 年ほどで劇的に変化してきた。当時は,英語の”Molecular Cloning”は別格として,実験書と言えば,主に東京化学同人や丸善や共立出版などから刊行されていたB5判で紙箱入りのハードカバーの実験法講座が主流だった。イラストはほとんどなく,プロトコールは省略が多くて分かりにくく,想定読者層もトップ大学の修士2年生以上や若手教員だったように思う。分子生物学の技術は,生化学の隣で職人的に受け継がれる徒弟制度に近い世界にあり,まだまだ一般の学生のものではなかった。そうした状況に風穴を開けたのが,90年代に秀潤社(当時は学研の子会社)から,東大医科研で使われているレシピを編んで刊行された「新・細胞工学実験プロトコール」をはじめとする「プロトコールシリーズ」であり,ほぼ同時期に羊土社から刊行された「遺伝子工学ハンドブック」や「バイオマニュアルシリーズ」であった。これらは非常に画期的で,多くの研究室に備えられた。しかし,それでもプロトコールがステップバイステップで書かれていなかったり,書かれていてもそこだけ英語だったりして,「ごく普通の学生が原理を理解し実験を行って結果を出す」には,なお難しすぎた。そうしたニーズに応えたのが,秀潤社から刊行された「バイオ実験イラストレイテッドシリーズ」だった。分子生物学的手法が職人芸から大衆化していく移行の過程で,原理を丁寧に解きほぐしたうえで細かいテクニカルtipsを図解し,やってはいけないことからトラブルシューティングまで,豊富なイラストと写真で誰にでも分かりやすく解説したレシピ本である。羊土社からも同様の発想から「無敵のバイオテクニカルシリーズ」が刊行されたが,特に「イラストレイテッドシリーズ」は初心者向けの“バイブル”として爆発的な支持を集め,企画発案した担当編集者は社長賞に輝いた。その10年後,大衆化した分子生物学的手法はさらにユニバーサル化し,様々なキットを用いた実験を専門分野外卒の研究補助員が日常的に行う時代を迎えた。こうした背景に,「イラストレイテッドシリーズ」の姉妹編として,評者を含めたシリーズの一部の著者らが再び集まって「超実践バイオ実験イラストレイテッドシリーズ 全2巻」が刊行されたのだが,それからさらに10年が過ぎ,激動する研究環境の新たなニーズに応え,満を持して登場したのが,本書である。
本書の大きな特徴のひとつに,いわゆるwetな実験テクだけでなく,「ゲノムデータベースの使い方」(第4章)といったdryな研究テクに,ほぼ2割を割いている点がある。webの活用は「超実践シリーズ」でも扱ったが,分量は限られ,内容も現在ではすっかり古くなってしまった。今,本書を推す大きな理由のひとつである。さらに,webの活用と言えば,本書には実験動画やプロトコールへのリンクを示すQRコードが随所に配置されている。本書が「イラストレイテッドシリーズ」の後継版を謳いつつ,「ビジュアル」を冠している由縁でもあるのだろう。
もうひとつ,「イラストレイテッドシリーズ」には,読者は意外と気づきにくいが類書にあまり見られない特長がある。それは,「〇〇に注意すること。」「〇〇しないよう気をつけること。」などといった曖昧な表現で終わらないことである。多くの実験書でよく見かけるこの言い方では,初心者は「どう注意すればいいの?」「気をつけていると何が変わるの?」と困ってしまい,「どうすべきか」という肝心なことは全く伝わらない。本書では,例えば,「発熱するから注意すること。」の後に「冷やしながら行う。」や,「素手で触らないよう注意する。」に加えて「手袋をする。紙を敷く。」など,痒いところに手が届く具体的な指示が明確に示されている。かつての「イラストレイテッドシリーズ」の担当編集者が初心者の読者を想定して徹底させたこの方針は,後継版を謳う本書にもしっかりと受け継がれている。
今日,生化学や細胞生物学や発生生物学は言うに及ばず,遺伝学や生態学や系統分類学の卒研生でも,当たり前のように分子生物学的な技法を駆使するようになっている。そうした学生が最初に手に取るコンパクトな実験書として,本書は優れた羅針盤になるだろう。研究室に是非備えておきたい実験書である。
真壁和裕(徳島大学社会産業理工学研究部)
ビジュアルバイオ実験 分子生物学実験の基本 書評(PDFファイル)



