Excelでひも解く進化のしくみ — 進化生物学入門 書評

Excelでひも解く進化のしくみ — 進化生物学入門 書評

京極大助[著]丸善出版,2025年11月刊行,2,700円(税別)

私は昔,進化生物学の大部の教科書の翻訳に参加したこともあり,生物進化に大きな誤解はしていないつもりだ。だが,数学が超苦手で,数式が出てくると無意識に読み飛ばす習性がある。集団遺伝学の教科書も何冊か持っているが(本書の「さらに学びたい読者のために」で何度も紹介されているHartl and Clarkも版の異なる2冊を所有する),数式の多さにおそれをなし,必要が生じたときに一部を拾い読みするだけだった。よって,理解の方向が間違ってないとしても,たとえば予想される状況になるのに何世代必要か,などという議論はお手上げだった。

「Excelでひも解く」という表題から,本書は私がこれまで面倒くさがって避けてきたアプローチを教えてくれて私の長年のもやもや感を払拭してくれると直感したが,それは間違いではなかった。あとがきで著者は本書の内容は集団遺伝学でありタイトルがあまり正確ではない,などと謙遜しているが,じつに絶妙のタイトルだったと思う。1遺伝子座2対立遺伝子で適応度の差で遺伝子頻度がどう変化するかをExcelに数式を入れてシミュレーションするところから始まり(第2章),頻度依存選択(第3章)に進む。ここでタカハトゲームや性比の進化が登場する。これらの話題は行動生態学では頻出だが,集団遺伝学の教科書では馴染みがない。これらを遺伝子頻度の変化としてシミュレートできるとは知らなかった。この時点でもうただの集団遺伝学の本ではない。第4章では,突然変異,移動分散,第5章では遺伝的浮動,同類交配を扱い,第6章でハーディー・ワインベルグの法則を詳説している。この法則は高校の生物教科書にも出てくるがその意義は一般にはあまりよく理解されていない。これは,各遺伝子型の実際の観察値からこの法則を使って各遺伝子型の期待値を計算して両者を比較するという作業が紹介されず,紹介されても,期待値がずれないものが(たとえばABO式血液型の各血液型の頻度など)例とされることが多いためではないかと思う。実際の観察値から遺伝子頻度を計算し,そこから期待値を出すのだから観察値と期待値が同じになるのは当然じゃないか,と感じるのが普通人の感覚ではなかろうか。説明をわかりやすくするには,超顕性やヘテロ接合劣勢(heterozygote inferiority)を例に挙げるとよいと思う。たとえばHartl and Clarkの第2版のp.171にある西アフリカでの鎌状赤血球遺伝子を含むβグロビン対立遺伝子の遺伝子型をカウントした表(この表には正常βグロビンにAとCが区別されて3対立遺伝子になっているため少しややこしいが各遺伝子型の観察値と期待値は確かに有意にずれている。残念ながら第4版にはその表はない)などを例に出して,遺伝子頻度,ハーディ・ワインベルグ期待値の算出,それに観察値と期待値の有意差検定のやり方などをボックスにして示すとさらに理解の助けになったのではないかと,染色体交雑帯(ほぼ必ずヘテロ接合核型個体の観察値が期待値よりも低い)を長年調査しハーディ・ワインベルグ検定に馴染んできた私などは思う。

さて,第7章では複数の要因が影響する場合として,まず自然選択と移動,自然選択と突然変異,自然選択と遺伝的浮動の3例のシミュレーションが紹介される。また第8章では中立説が詳説され,中立な突然変異と遺伝的浮動のもとで対立遺伝子頻度を調べるシミュレーションが紹介される。ただし,これはExcelで表現するのは難しいとのことでR言語のプログラムとそれによる結果が紹介されているのみだ。が,話は,これから集団の個体数が推定できるという話に進み,現代人,ネアンデルタール人,デニソワ人の集団サイズの変遷がわかる,とも紹介されている。さらに第9章では複数の遺伝子座が関与する場合として,組換えと連鎖不平衡,遺伝的な不和合と種分化,性選択での配偶者選好性と装飾形質の進化の3つのシミュレーションが紹介されている。第10章は包括適応度を組み込んだ利他行動の進化の数値シミュレーション。このようなアプローチでの性選択や包括適応度の説明も私には新鮮で興味深かった。そして最後は,進化学と人間社会との関わり(第11章)で締めくくられる。ここでは育種,優生学の歴史と問題点,自然主義の誤謬,生物進化が医学,農業,漁業などにもたらす問題点,ヒトのいろいろな性質にみられる進化,進化学の発展の遅延についての進化学的説明などが簡潔に,しかし,確かな説得力をもって語られている。この第11章を読むためにだけでも本書購入の価値ありと言いたいほどである。

本書で完成するエクセルシートは15個あるが,作り方の説明はわかりやすく,時間はかかるがフラストレーションは感じない。いずれにも各セルに入力する数式(四則演算のみでややこしくはない)の一覧表に加え,3世代目までの数値が見える完成イメージ図とシミュレーションの結果の図(世代と遺伝子頻度で描いた散布図)がある。よって,どこかのセルに入力間違いをしても完成イメージ図の数値と完成した散布図に照らすと,入力ミスがわかる。苦労して入力した末に図が完成するだけでも嬉しいが,完成したシートでパラメータの数値を変えて結果がどう変化するかを見る作業はさらに楽しい。完成したエクセルシートは出版社のHPからもダウンロードできるが,ここは面倒でも自分で最初から各セルで何を計算しているかを確かめながら入力することを大いに薦める。なお,表の各セルへ入力する式は数多あるがミスは一つもなかった。ただし,セル番号にはわずかに誤記があった。125ページの表9.5の左端コラムのE6はD6;136ページの表の左端コラムのH12はH11,I12はI11,であろう。いずれも誰でも気づける程度の誤記だが,どぎまぎするので第2刷では修正してもらうとよいと思う。

本書の内容は私が最初にタイトルからイメージしたものをはるかに陵駕していた。入門書といいつつ扱っている内容は幅広く,かつ相当に深い。よく練られた書であり,読み進めながら,著者の驚くべき才能と力量に舌を巻いた。続編でも本格的教科書でも,あるいは別テーマでもよいが著者の次回作の出版がいまから楽しみだ。

鶴崎展巨(鳥取大学 名誉教授)

Excelでひも解く進化のしくみ — 進化生物学入門 書評(PDFファイル)

お知らせのカテゴリ一覧

月別アーカイブ

最新のお知らせ

寄付のお願い

日本動物学会第97回大会

PAGE TOP